2006/11
人を育てる環境の不思議君川治 17



 西洋近代科学の萌芽といわれるガリレオの「天文対話」の出版が1632年、「新科学対話」の出版が1638年である。これに対し、日本で多くの蘭学者が活躍するのが18世紀から19世紀であり、杉田玄白の「解体新書」が刊行されたのは、ガリレオの新科学対話より100年以上遅い1774年であった。
 これまで15人の科学者・技術者に登場願って夫々の人物を断片的に眺めてきた。これを一覧表にしてみると、伊能忠敬が年代的に離れているが、他は年代的に連続している。
 これらの人達の周囲にはお互いに影響しあった多くの人達がおり、科学者と技術者、政治家と技術者、実業家と技術者など、様々な人間関係がバックグランドにある。
 例えば辰野金吾、高峰譲吉、田辺朔朗は明治の初めに工部省に設置された工部大学校の出身者であり、工部大学校はお雇い外国人技術者に代わって殖産興業に携わった多くの技術者を育てた。
 長岡半太郎、本多光太郎、岡田武松は帝国大学理科大学の出身、八木秀次、松前重義、島秀雄は帝国大学工学部の出身である。彼らも海外留学により先進科学技術を学び、次の時代を担う科学者技術者を育てた。
 工部大学校や帝国大学以外に、幕末には明治につながる多くの人材を育てた教育機関があった。
 例えば、伊能忠敬が指導を受けた幕府天文方は、当初は改暦のための天文観測を主要業務としていたが、その後は蘭学書の翻訳や外交文書の翻訳、洋学の学問所と変遷した教育機関であったし、幕府が設立した長崎海軍伝習所は3年間の短期間に多くの人材を育てた。活字印刷の本木昌三はこの伝習所の通訳であった。
 更に遡れば長崎は多くの俊秀の遊学先であり、シーボルトを始めオランダ商館駐在医官や長崎通詞を通してヨーロッパの医学や科学を吸収していった。
 科学者・技術者を追っていくと、彼らを育てた教育環境や人間の相互関係が見えてくる。逆に表面的には同じ環境にありながら人材の育たない疑問の所も出てくる。
 次回からは時代を少し逆戻りさせて幕末から、人間関係を見ながら科学者・技術者を見ていくこととしたい。



筆者プロフィール
君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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